教えのやさしい解説

善知識・悪知識(ぜんちしき・あくちしき)
 
 妙教(283号)
 善知識・悪知識

 《朱に交われば赤くなる》
 私達は人生において、家族をはじめ周囲の人々から様々な影響を受けます。
 諺にも「朱に交われば赤くなる」とあるように、尊敬できる先生や友人等に恵まれると、その人々から、考え方や人としての振る舞い等、自然と多くのことを学び、成長することができます。
 しかし反対に、平気で悪事を行うような人と友人になると、自分も知らぬ間にその影響を受け、悪行をなすことに抵抗がなくなってしまいます。
 このように、人は良きにつけ悪しきにつけ、交際する仲間から大きな影響を受けるものです。
 仏教では、仏道修行における善悪の友人を「善知識・悪知識」と言います。
 今回は、このことについて学びましょう。

 《知識とは友人のこと》
 知識とは、一般的には「知ること」「理解すること」、またその内容等を意味する言葉ですが、仏教においては「友人」「知人」等の意味で用いられます。
 この知識には、善知識と悪知識があり、善知識とは「善き師」「善き友」「真の友人」の意で、仏教の正しい道理を教え、正しく導いてくれる人を言います。悪知識とは「悪い友」「悪い師」の意味で、邪悪な教えを述べて仏道修行を妨げ、人々を誤った道に導く者を言うのです。

 《善知識には値い難い》
 善知識について、雑阿含経には次のように説かれています。
 「ある時、阿難は釈尊にお聞きした。『仏道修行を半ばまで成し遂げた人は、善知識と言えるでしょうか』釈尊は答えられた。『そうではない。善知識とは、仏道修行の半ばではなく、そのすべてである。人々は私(釈尊)を善知識として、仏道を成ずることができる。善知識とは、仏道修行のすべてだと知りなさい』と」(取意)
 この説話は、仏道修行において善知識がいかに大切であるかを教えています。
 日蓮大聖人が 『三三蔵祈雨事』 に、
「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。(中略)而るに善知識に値ふ事が第一のかたき事なり」(御書八七三)
と仰せのように、成仏のためには善知識に値うことが絶対に必要ですが、それは非常に難しいことなのです。

《最勝の善知識とは本門戒壇の大御本尊》
 天台大師は『摩訶止観』に、
「善知識とは(中略)一に外護、二に同行、三に教授なり」
(止観会本中一〇四)
と述べ、次の三種の善知識を示しています。
@外護の善知識…仏道修行者を守護する人
A同行の善知識…共に修行に励んでくれる人
B教授の善知識…正しい仏法を教え、導いてくれる人
 また『法華文句』には、この三種に加えて、成仏に導き入れてくれる「実際実相の善知識」を示しています。
 これについて大聖人は、
「実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり」(御講聞書・御書一八三七)
と仰せられ、実相の善知識とは大聖人が弘通された法華経本門寿量品文底の南無妙法蓮華経であると御教示されています。
 御法主日如上人猊下は、
「善知識とは、一般的には、教えを説いて仏道へと導いてくれる尊い友人・指導者のことを指しますが、ここで善知識と仰せられているのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏性を扣発し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。したがってまた、今時に約して申せば、人法一箇の大御本尊様を指すのであります」(大日蓮・平成二三年五月号)
と御指南されています。
 これらの御教示のように、末法における最勝の善知識とは、一切衆生を成仏に導いてくださる御本仏日蓮大聖人であり、またその御当体である本門戒壇の大御本尊に在すのです。

 《悪知識とは謗法》
 悪知識については、涅槃経に次のように説かれています。
 「弟子達よ。悪象(凶暴な象)に恐れを抱くことはない。しかし悪知識に対しては恐れる心を持ちなさい。なぜなら、悪象はおまえ達の身体を破壊するだけだが、悪知識はおまえ達の未来世の無量の善身と善心を破壊してしまぅ。悪象に殺されても三趣(地獄・餓鬼・畜生の三悪道)に至ることはないが、悪友のために殺されれば必ず三趣に至る。おまえ達は、諸々の悪知識を遠ざけて離れ、けっして近づいてはならない」(取意)
 このなかの「悪象に殺される」とは、現在で言えば交通事故等と考えられるでしょう。つまり、たとえ事故等で不慮の死を遂げたとしても三悪道に堕ちることはありませんが、悪知識に惑わされると、永く三悪道に堕ちることになるため、けっして悪知識に近づいてはならないと説かれているのです。
 大聖人は『富木殿御書』に、
「応に畏るべきは深法を謗ずると及び謗法の知識なり。決定して人をして畏るべき阿鼻獄に入らしむ」(御書一一六七)
と仰せられています。すなわち悪知識の最たるものは謗法(正しい仏法を誹謗すること)であり、これを犯せば必ず無間地獄に堕ちて、永く苦しむことになるのです。
 また大聖人は『種々御振舞御書』に、
「今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。(中略)相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。(中略)今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり」(同一〇六二)
と仰せられています。
 大聖人は、法華経の予言の通り、妙法を弘通して謗法者から迫害を被り、御自身が真の法華経の行者であることを証明されました。
 私達も、自ら謗法を犯さないのは勿論のこと、たとえ謗法の人々に信仰を妨害されても、それを自らの信行増進の資糧として強盛な信心を貫くならば、必ず困難を乗り越え、大きく成長することができるのです。

 《人々の善知識となろう》
 大聖人は『御講聞書』 に、
「善知識と申すは日蓮等の類の事なり。(中略)悪友は謗法の人々なり。善友は日蓮等の類なり」(同一八三六)
と御教示されています。
 私達は、真実の善知識たる日蓮大聖人の弟子信徒として、人々を不幸に陥れる謗法を敢然と破折する強盛な信心を堅持し、他の人々を大御本尊のもとに導く善知識となることができるよう、自行化他の唱題・折伏行に、一層、精進してまいりましょう。
 
善知識・悪知識(大白法476号)
 善知識とは、善(よ)き友、真の友人の意(い)で、仏教の正しい道理を教え、衆生を正しく導(みちび)く者をいいます。
 悪知識とは、仏道修行を妨(さまた)げ、悪法・邪法を説いて衆生を迷(まよ)わせる者をいいます。
 知識とは事物(じぶつ)の認識(にんしき)や認知のことではなく、広く人々に知られている友人・知人や師匠等のことで、私たちに縁する者を意味します。
善知識について、『法華経妙荘厳王(みょうしょうごんのう)本事品』には、
  若し善男子、善女人、善根を種(う)えたるが故に、世世(よよ)に善知識を得(う)。其(そ)の善知識は、能(よ)く仏事を作(な)し、示教利喜(しきょうりき)して阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみゃく)三菩提(さんぼだい)に入(い)らしむ。大王当(まさ)に知るべし。善知識は、是(こ)れ大因縁なり。所謂(いわゆる)化導して仏を見、阿耨多羅三藐三菩提の心を発(おこ)すことを得(え)せしむ (開結六五七頁)
と説かれています。この文によって天台大師は『法華文句(もんぐ)』に四種(ししゅ)の善知識を釈(しゃく)しました。
 すなわち、一に修行者を援助(えんじょ)し、仏法の弘通を援護する「外護(げご)の善知識」、二に仏法の教えを説き示してくれる「教授(きょうじゅ)の善知識」、三に励まし合いながら修行してくれる「同行(どうこう)の善知識」、四に成仏に導いてくれる「実際実相(じっさいじっそう)の善知識」です。
 日蓮大聖人は、『三三蔵(さんさんぞう)祈雨事(きうじ)』に、
「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなににかせん。たゞあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。而るに善知識に値(あ)ふ事が第一のかたき事なり」(平成新編八七三頁)
と仰せのように、成仏するためには善知識に遇(あ)うことが最も大切である。しかし、善知識に遇うことは大変難(むずか)しいことである、と御指南されています。
 これに対し、悪知識については、『星名(ほしな)五郎太郎殿御返事』に涅槃経(ねはんぎょう)の文(もん)を引用されて、
「悪象の為にころされては三悪に至らず、悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此(こ)の悪象は但(ただ)身の為にあだなり、悪知識は善法の為にあだなり」(同三六七頁)
と示されています。不慮(ふりょ)の死を遂(と)げたり、殺害によって横死(おうし)しても、これらはただ身を破(やぶ)るだけで三悪道に堕(お)ちる原因とはなりません。しかし、悪知識は、善心を破り、仏道に迷(まよ)いを生(しょう)じさせ、三悪道に導く悪因縁となる、と説かれています。
 大聖人は、仏道修行する者は善知識に親近(しんごん)し、悪知識を遠ざけることを教えられているのです。
 しかし、『種々(しゅじゅ)御振舞(おふるまい)御書』に、
「釈迦如来の御(おん)ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり」(同一〇六三頁)
と説かれているように、現実には私たちの周(まわ)りに悪知識がたくさん存在しています。ゆえに、私たちは、悪知識さえも、仏道修行増進(ぞうしん)の善知識と転換(てんかん)するだけの強い信心を持って、日々(ひび)精進していくことが大切です。